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【chikiの著作権のおはなし 第8回】 第1章 「ケンリシャ」いったい何者だ?(7)

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 こんにちは、オリンピックで寝不足ぎみですが、ウルトラシリーズファンとして幸せな週末を過ごしたchikiです。
 いよいよ明日はKAITOのデビュー4周年の記念日ですね!
 けーたんの誕生祭開催のおしらせへのみなさまのご反応を拝見して、その寄せられた思いにchikiも嬉しい思いでいっぱいです。
 今後ともKAITOに末永いご支持・ご愛顧を賜りますよう、心からお願い申しあげます。

 さて、本編はしばらく間があいてしまいましたが、今回はこれまで何度もふれてきた、著作権法によってあたえられる「つよい権利」ということについてお話しします。

 「じぶんの作品をまもる」ためのしくみには、いろいろなやり方が考えられます。その中で、著作権法が選んだやり方をカンタンにいうと、

  ●できた作品(音楽や絵や、その他いろいろ)は、基本的にどんなものでも「著作物」としてまもる。
  ●「著作物をつくった作者」には、「つよい権利」をあたえる。
  ●「つよい権利」をどのようにつかうかは、作者の自由とする。

というものです。

 どうしてこうしたのかというと、それには主にふたつの理由があります。
 ひとつめの理由は、「なにをまもるべき著作物にするか」ということ。これはとてもむずかしい問題です。
 「芸術的な価値の高さ」とか、「経済的な価値の高さ」とか、そういうことで選んでもいいのかもしれません。でも、だれがどうやってそれを決めるのか。
 法律をつくる人がそれを決めてしまうと、もめそうですね、とても。
 だから、およそなにかを表現したようなものは、誰のつくったものでもとにかく「著作物」にしてしまおうと、そうしたわけです(これも乱暴にまとめています。例外については、だいぶ後で説明します)。
 ずいぶんいいかげんな決めかたに見えます。でも、この方法がよかったんです。

 
 それは、昔は複製ということにとてもお金がかかったからです。
 たとえば、こどもが書いた落書き同然の文章に権利を与えても、売れる見込みもないそんなものを、高いお金をかけて複製しようなんて人は全然いませんでした。
 つまり、実際に権利をつかうことなんて、ほとんどの人にはありえないことだったんです。
 そうすると、自然と複製されるのは、複製することで高い利益をあげられるものだけということになります。ごく限られたすぐれた作品を、ごく限られた人だけが複製できる、そういう時代(だいたい今から300年くらい前のころのことです)にはじめての著作権法ができました。

 権利をつかう人がほとんどいないとすれば、なんでもかんでも「著作物」にしてしまっても実際に問題になりそうなのは、実際に複製したい人が「高い利益をあげられそう」と思うごくわずかの作品に限られる。それなら、法律を作る人は「なにを著作物にするか」なんてめんどくさいことを考えずにすむわけだから、法律を作る人と複製したい人、両方がハッピーになれます。

 そして、このころは複製をできるひとがすくないわけですから、著作物の作者がそういうひとたちひとりずつと、時間をかけて、それぞれ違うようなタイプの契約をむすぶこともできたわけです。いろんなタイプの契約をむすぶためには、権利者がもっている権利は、できるだけ自由でつよいもののほうがよかったんです。これが、著作権がこういう中身になった、ふたつめの理由です。

 今回は、「つよい権利」としての著作権はどうしてこうなったのか、ということについてお話しました。次回は、それが現在どうなっているのかについてのお話です。
 それでは、また!

(知規)