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【chikiの著作権のおはなし 第5回】 第1章 「ケンリシャ」いったい何者だ?(4)

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 こんにちは、chikiです。

 はじめに、VOCALOID製品ユーザーの皆様にご連絡です。
 最近におきまして、制作された楽曲の権利に関係するトラブルや、業者からの急な問い合せなどがございましたら、ご連絡、ご相談、その他情報のご提供など、mpsupport@crypton.co.jpまでなんなりとおしらせくださいませ。

 さて、前回のおはなしのつづきです。
 先住民族と、かれらが属する国家の著作権法とは、決定的にあいいれないところがあります。

 前回おはなししたように、文明社会からうまれた多くの国の著作権法は、

「だれかの作った作品は、はっきりしただれかのものである」

ことを前提として、その「はっきりしただれか」をまもるためのものです。

 逆にいえば、著作権法でまもられるのは、「その作品はわたしだけのものである」ということをいえる人だけです。さらにいいかえれば、そのだれかがはっきりしないとき、その作品を勝手につかわれないようにするのはとてもむずかしいことになります。

 いっぽう、これも前回おはなししたように、先住民族の文化においては、作品は原則として

「みんなのもの」で、それが「だれのものであるか」はあまり重視しません。

 そして、文化というものが、お互いにマネをしあいながら発展していくものであるということを考えたときには、このほうがずっとすぐれているといえる面もたしかにあります。しかし、「だれのものかはっきりしない」ということは、それを勝手につかわれたときに、法律によってまもられることがむずかしいということでもあるのです。

 だからといって、作品をまもるために著作権法を使おうとすれば、「作品がだれのものか」をはっきりさせなければなりません。それは、じぶんたちの文化や慣習をじぶんたちでこわすことになってしまいます。それはとてもつらいことです。
 結果として、外部のひとびとに作品をうばわれることについて、泣き寝入りをするしかなくなってしまうのです。

 もちろん、現代の国際社会は、このようなことをただだまって見ているわけではありません。さまざまな先住民族が声をあげた結果、おそまきながらもこの30年ほどの間には、多くの国際機関が先住民族の知的財産をまもるために、さまざまな権利の基準をつくりました。

 こうしたうごきの中で、「先住民族自身が参加しない基準づくり」「先住民族の文化の特徴に配慮しない基準づくり」には意味がないという合意ができあがったことには大きな価値があるとされています。その道のりはまだ途中ですが、2007年に国連で採択された「先住民族の権利に関する国際連合宣言」には、こうした問題意識が明文で記載され、さらなる一歩を進めたものと考えることができます。

 さて、こうしたことをふまえたうえで、次回からは、ウェブ空間における創作活動と権利者の関係をどうしていくべきかということについて考えたいとおもいます。
 それでは、また!

第4回、第5回の内容については、北海道大学アイヌ・先住民研究センター長である常本照樹教授(憲法学)の論文「先住民族の文化と知的財産の国際的保障」(北海道大学大学院法学研究科21世紀COEプログラム「新世代知的財産法政策学の国際拠点形成」事務局編集『知的財産法政策学研究第8号』pp.13-36)を参考にいたしました。常本先生に感謝申し上げます。
なお、第4回、第5回の内容が常本先生のお考えを正しく反映したものでない場合、その全ての責任はchikiにあります。

(知規)